日々の読書日記

読書の忘備録です

19回目「マイ・ファニー・レディ」(ピーター・ボグダノヴィッチ監督)

 登場人物の関係性がごちゃごちゃとしており、最初の10分程はなかなかストーリーが掴めなかったが、途中から人物の関係性が分かってくると面白い。脚本がよくできている。コールガールとして働く女性が、演出家の客と出会う。彼女を気に入った演出家が彼女に金銭を援助し、そのお金で彼女はコールガールから女優に転身する。その後、彼女は女優として最初の舞台のオーディションを受けるのだが、この舞台の演出家がなんと、数日前に客としてきた男であった。というのが物語の主軸である。さりげなく張られた伏線や、ユーモアに富んだセリフなど、見どころの多い上質のコメディーで、約一時間半の間、退屈せずに観ていられる。
 コメディー映画は、見終わった後「ああ、面白かった」と思えればそれで充分であり、別にそれ以上のものは求めていない。コメディーとは本来、単に娯楽であり退屈な日常に少しだけ潤いを与えてくれればいいわけで、見終わった後に分析だの批評だのをする必要はないように思う。当初、「マイ・ファニー・レディ」もその手の映画だと思っており、見終わって数日は特に気にすることもなく、この映画についてブログを書く予定もなかった。ただ、よくよく考えてみると、この映画は結構ギリギリの線を付いた映画のように思える。
 コールガールというのはかなりオブラードに包まれた呼称であるが、いわば風俗嬢の事だ。女優になる事を夢見る女性が、お金を稼ぐために風俗で働いている。この映画の冒頭はまさにそういうシーンである。また女優になった彼女に対して、彼女の前職を侮蔑するようなセリフを吐くシーンもある。
最近、ある芸人が深夜のラジオで発言をした内容が世間から猛烈な批判を受けた。その芸人の発言と、この映画の中身は、シンクロしている部分がかなりあるように感じる。芸人の発言が、これだけ世間から批判されているのだから、同じ文脈でこの映画が批判されてもよいはずであるが、そういう声は聞かない。2014年公開の映画なので、芸人の発言のようにタイムリーな話題ではないことを差し引いたとしても、例えば、インターネット内での映画レビューにもこの映画をフェミニズムの論調に従って批判しているものはなかった。6年の間に、人々の人権とか差別に対する意識が敏感になったのだろうか。どうも、そんな感じでもない。
 映画全体がポップなノリなので、そのノリに紛れて差別的な表現がスルーされてしまっただけなのか。或いは、「映画」であるという一種の芸術的権威が、差別的な表現を黙認させ得る免罪符になっているのだろうか。そうだとすれば、少し悲しい気がする。芸人の発言は、ある意味、おバカな男の本音がポロリと出てしまった低俗な発言として批判し易い。もちろん、そのような方向での批判は的外れであるし、問題はもっと深く根源的である。ただ、芸人の発言と映画の間にある世間の捉え方の乖離に少し違和感を覚えた。
差別に対して私見を述べさせて頂くなら、この当該芸人の発言は擁護できないし、性差に関係なく沢山の人を不快にさせる発言だったと思う。一方で、叩きすぎの感も否めない。行き過ぎたバッシングは、正義の名を借りた暴力であるように思う。憎むべきは差別や貧困を産み出す社会のシステムそのものであり、個人ではない。また、当該発言に似たような事は、過去に自分自身も軽い気持ちで発した事があるかもしれない。自覚も悪意もなく、差別的な事を言って、知らずに他人を傷つけているかもしれない。自戒しようと思った次第だ。もし、俺が他人を差別してしまった場合は、俺に差別をされた人は俺の事を徹底的に批判してください。そして徹底的に反省します。逆に自分が他人に差別されたと感じた時は、できるだけ感情的にならずに、寛容の精神を持って、何がどのように間違いなのかを相手に諭せるような人間になりたいと思います。
あと「差別的表現と言葉狩り」についても、私見を述べようと思ったが、疲れたのでまた後日。
 後半は映画評と殆ど関係ない文章になってしまったが、ご勘弁候。
以上