最近では『枯れ葉』で監督に復帰したフィンランドの巨匠、アキ・カウリスマキが1990年に撮った映画。
アキ・カウリスマキの映画は初期の作品を除いて殆ど観ている。『マッチ工場の少女』も10代の頃に一度観た。70分弱と短く、あまり印象に残っていなかったのだが、この度、アマプラで無料で配信されていたので15年ぶりくらいに再見した。
マッチ工場で働く少女、というには成熟しすぎている女性が主人公。アキ・カウリスマキの殆どの映画の登場人物がそうであるように、この女性も地味で貧しい不器用な労働者である。恐らく、恋愛とは無縁の境遇で日々を慎ましく暮らしていた、というのが推測される。そんな彼女が、ダンスホール(?)で出会った男性と一夜を共にし、たった一度の恋愛で男の子供を身ごもるが、男に捨てられる。さらに追い打ちをかけるような不幸が立て続けに起こり、やがて、彼女は男と、彼女に辛く当たる両親に毒を飲ませて殺害する、、、、、、というお話。
自分は、アキ・カウリスマキという人はヒューマニズムの人だと思っていた。どの映画も、人畜無害の主人公を理不尽なやり口で不幸のどん底に突き落とすが、最後の最後には救い或いは希望を持たせる。
そして、「希望」が実に地味で些細であること。例えば起死回生の大逆転なんて派手な事は起こらない。本当に慎ましやかな小さな希望を持って映画が終わる。だから、観終わった後にしんみりとした余韻が残る。
そういう映画を撮る監督だと思っていたが、『マッチ工場の少女』は最後まで希望がなかった。いわゆるバッド・エンドであった。突き放された感じがしないでもないが、後味は不思議と悪くなかった。今まで、社会のしがらみに従属していた彼女が、ふっきれたように刑事に連行されていく姿に逞しさを感じたのかもしれない。
しかし、アキ・カウリスマキは映画の職人だと思う。アーティスト的ではなくアルチザン的な渋さがある。
主人公は寡黙で無表情なのに、それでも彼女の内面が画面越しに痛いくらいに分かってしまう。表現の妙である。饒舌で喜怒哀楽がはっきりしてるのに、どこか薄っぺらい他の多くの作品とは対極にある。