日々の読書日記

読書の忘備録です

129回目「美しい星」(三島由紀夫:新潮文庫)

「自分たち宇宙人だ」と思い込んでいる家族の話。要するに、狂人の話である。或いは本当に宇宙人である可能性もある為、断定はできないが。

数多ある三島由紀夫の小説の中でも異色だと感じた。多分、作者名を知らずに読んだら、三島由紀夫だと気付かなかったと思う。それくらい、自分が過去に読んだ三島由紀夫の小説とはテイストが違う。三島作品を全部読んだわけではないし、たまたま自分が読んだことのある三島作品が同じようなテイストのものに偏っていた可能性もあるが、新しい発見であった。そもそも、ある一人の作家を取り上げて「この作家はこういう作風だ」などと規定するのはナンセンスである。作家だって一人の人間であり、作風に一貫性がある訳ではなく、書きたいテーマは日に日に変化し進歩する。「三島っぽい」とか「三島みたいな文体」とかの決めつけは作家本人にしてみれば甚だ失礼であるし、バイアスに繋がる。それは分かっているのだが、何故か自分の中で三島由紀夫は「無意識に規定してしまう」作家のひとりなのだ。

自分は、三島由紀夫とは、「難解なことを難解に書く作家」なんなら「簡単なことを難解に書く作家」という風に規定していたのだ。或いは、糞真面目な事を糞真面目に書く作家だと思っていた。ジョークとかユーモアとかサービス精神とかよりも自身の中にある観念を表現するのを第一義に選ぶ。だから「笑い」の要素は少ない。と、思っていた。

ところが。この『美しい星』は笑いに満ちていた。見た目は難解なのだが、至る所に人間たちの滑稽さが皮肉とユーモアを交えて挿入されている。そこには、かつて「難解なことを難解に書いていた」三島自身をも茶化すような視点があった。

例えば、主人公一家の敵にあたる「羽黒一派」が歌舞伎の観劇に行く場面。演目は三島由紀夫本人が書いた芝居であり、唐突にメタ要素を取り込んでいる所が、なかなかお茶目なのだが、羽黒は「こんな小説家が書いた芝居なぞ見る気がしない」と言ってのける。三島渾身の自虐的なギャグである。

さらに後半、人類は滅亡すべきだと主張する羽黒一派と、人類を救済に使命感に燃やす主人公・大杉重一郎が、重一郎宅のリビングで対峙する場面。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の場面に準えて解説しているが、とんでもない。

確かにこの場面のやり取りだけを読むと、高尚で観念的な議論が展開しているように思えるし、それぞれの主張にはある種の説得力があるのだが、その難解な議論をしている主体が、「自分は宇宙人だ」と宣う狂人であるという事実が妙に滑稽なのだ。

どちらかというと、『カラマーゾフの兄弟』よりも漱石の『吾輩は猫である』に通じる滑稽さがある。もっともらしい事をしたり顔で説いているけど、「そもそも、お前猫やんけ」とツッコミを入れてしまいたくなる面白さと同種である。つまり、「お前ら、自分を宇宙人と思い込んでる狂人やん」とつっこみたくなるのだ。

また、この羽黒一派の俗人ぶりも面白い。ルサンチマンを拗らせている見た目も内面も醜いおっさん達、という設定は類型的だが、笑える要素である。

以上のような理由で、とても面白い小説だったのだが、やはり、三島由紀夫自身がどこまで読者を笑わせようとしていたかは、心許ない。案外、ここまで書いたのは全部自分の解釈が間違っていただけで、笑いなど意識せず、最初から最後まで大真面目に書いていただけかもしれない。普通の作家なら、こんな警戒はしないが、三島作品にはどうもすんなりと受け入れ難い何かがあるように思う。