日々の読書日記

読書の忘備録です

126回目「モンスター」(パティ・ジェンキンス監督)

兎に角、シャーリーズ・セロンがものすごく頑張っている。

この映画を観るのは2回目である。最初に観たのは十数年前。悲惨な幼少期を過ごした娼婦が、客の男性を殺害するというショッキングな内容の為か、十数年経った今でもよく覚えていた。この度、アマプラで無料で観れると知って鑑賞した次第である。

映画じたいは駄作とは思わないけれども傑作とも思わない。物語の先行きは、ある程度容易に予想できるし、新鮮味はない。しかし、実に色々な事を考えさせられた映画でもあった。内容が内容だけに、一定の胸糞悪さは覚悟していたし、実際胸糞悪いのだが、その胸糞の悪さは、「何人もの男を殺害した」という事実に起因するものではなく、寧ろ、殺害される原因を作った被害者たる男たちの方に起因している。或いは、過去の彼女の生い立ちを含めた全てが胸糞悪く、殺人はそれらの醜悪なるものを清算する意味合いがあり、寧ろ清々しく頼もしい。不謹慎だが、「殺されて当然だ!」とさえ思う。「彼女の生い立ちに同情はするが、殺人は良くない」などといった凡庸な意見を挟む余地のない頼もしさがある。

『モンスター』は、1990年代にアメリカで実際に起きた殺人事件を扱った映画だが、類似する犯罪は、現在の閉塞的な空気が蔓延する日本でも増えるだろうと思うと、また気分が滅入る。事実、子供の虐待やイジメ・性暴力などのニュースは連日のように目にするし、その不幸な被害者たちが、時を経て殺人の加害者となるかもしれない可能性などを考えると他人事ながら胸が痛くなる。また、最近の凶悪犯罪は、『モンスター』の主人公のような、ある意味「正当な動機」があるものではなく、「単に周りに流されただけ」とか、「目先の金が欲しかったから」というような、マトモな感覚を持った者にはちょっと考えられないような短絡的な事件が多く、そういう意味では、『モンスター』の世界以上にヤバい時代になった気がする。要するに、気が滅入る。

今回、『モンスター』再見した時、十数年前に初めて観た時と全く同じシーンが強く印象に残った。そのシーンは、映画全体では特に重要なシーンでもなく、無くても問題ないような些細なシーンなのだが、個人的には強く心に響くものがあった。

それは、映画の中盤。3人目の客となる、もさい感じの男とシャーリーズ・セロン演じる娼婦が車の中で行為に及ぶシーン。娼婦は、もちろんこの男も殺害するつもりでいた。どうせこの男も皆と同じく自分を見下し、性欲のはけ口に利用するだけの屑男だと思っていたからだ。しかし、行為の途中「こういう事は初めてだから、あまり激しくしないで」と男に懇願される。そして最後に男は娼婦に「ありがとう」と言う。男からすれば、特に他意のない、何気ない挨拶だったのだろうが、この言葉が娼婦には響いた。初めて、男から受けた謝意と敬意だったのである。それは、人を啓蒙するような力強い言葉ではない。言うなれば、「細やかに過ぎる優しさ」なのかもしれない。しかし、地球上にいる全ての人間が、この「細やかな優しさ」を使うべき時に細やかに使えば、世界はもう少しマシな方に傾くのではないだろうか、などと、幾分ロマンティストな自分は夢想したのである。