監督のサム・メンデスは、『1917命をかけた伝令』が昨年のアカデミー賞にノミネートされた。しかし結果は、作品賞も監督賞もポン・ジュノの『パラサイト 半地下の家族』だった。この結果には納得できる。『1917~』も面白いとは思うが、両者を比べるとやはり『パラサイト~』の方が全体的な完成度は高い。というのが、自分の見解だ。
『1917~』は、最初から最後までワンカメラ・ワンカットで撮っている。劇場で観たが、とても臨場感のある映画だった。ただ、見終わった後「だから何?」という身も蓋もない感想を抱いたのも事実だ。『1917~』の面白さは、映画の面白さというよりも、TVゲームの面白さだと感じた。人がスーパーマリオをプレイしている画面を横で見ている感じの面白さだ。冒頭から途中までの二人の男が目的地に向うシーンは、まさにマリオとルイージがダンジョンを冒険しているかのように錯覚したのだ。ただ、いかんせん自分はTVゲームを殆どしないので、この感覚が正しいのかどうか自信がない。
で、そのサム・メンデスが『1917~』よりも大分前に撮った『アメリカン・ビューティー』である。こちらは『1917~』と違い、当時のアカデミーの作品賞を獲得している。そして、これまた『1917~』と違い、映画としての面白さがあった。一つの家族と家族を取り巻く人たちの悲劇と崩壊を描いている。ジャンル的には一風変わったコメディのようでもあるが、少し痛くてほろ苦い。悲劇と崩壊を描いているのにコメディであるという点が、逆にこの映画独特の痛さを際立たせている。いや、「逆に」という接続詞は正確でないかもしれない。喜劇はそもそも痛さを内包している。滑稽さと痛さは、実は表裏一体なのだ。だから人は、滑稽なものを観た時、笑うと同時に哀しくもなるのだ。『アメリカン・ビューティー』という映画が痛さを伴うのは自然なのだ。
『アメリカン・ビューティー』の家族構成は、父親と母親と娘の3人だ。ケヴィン・スペイシーが演じる父親のレスターが一応の主役である。祖父や祖母はいない。兄弟もいない。ペットもいない。典型的なアメリカの核家族だ。この、典型的というワードが『アメリカン・ビューティー』という映画では重要だ。
この主人公家族の隣には、別の家族が住んでいる。こちらの家族構成も父親・母親・息子の3人だ。さらに、娘の親友であるアンジェラという少女が出てくる。この7人が主要登場人物なのであるが、7人が全員、分かりやすい欠陥を持っている。分かりやすい欠陥とは、典型的な欠陥という意味だ。ベタな欠陥とも言える。
まず、隣家族の父親。彼はゲイを異様に嫌う差別的な男として描かれている。家父長的で保守的な特徴が誇張されている。言わば、分かりやすい差別主義者だ。また、彼の妻は分かりやすく精神を病んでいる。作中では殆ど喋らず目に力がない。何かに怯えているように常にオドオドしている。恐らく、家父長的な夫に常に抑圧され続けた結果、精神を病んでしまったのだろうと、容易に想像できる。彼女が「散らかっている部屋でごめんなさい」と言った後、とても綺麗に整理整頓されたリビングが映るシーンは、まさに滑稽さと痛さが混じりあったコメディだった。
そして彼らの息子は「サイコヤロー」である。「サイコヤロー」という言葉は、実際に映画内で、娘の親友のアンジェラがこいつに対して使っている。マリファナをキメてたり、隣の娘を盗撮したり、その盗撮が娘にバレても焦ったり悪びれたりすることなく、盗撮に対する自身のポリシーを主張したりする。その言動は確かにサイコヤローだ。分かりやすい。
主人公家族の3人も、それぞれが持っている短所がとても典型的で分かりやすい。母親は、不動産会社で働いているが、体裁とか世間体を気にし過ぎてしまうヒステリックな女性だ。プライドが高く、常に欲求不満で満たされていない。そして自分の夫より地位も名誉もある同業の男性と不倫をしてしまう。とてもベタな展開である。
一人娘も典型的なティーンエイジャーだ。「思春期の娘」という言葉から我々が想像するイメージをそのまんま体現している。具体的には親を軽蔑していたり、男にモテる親友に密かに劣等感と嫉妬を感じていたりと分かりやすい。
そして、父親のレスターと娘の親友のアンジェラだ。
家庭内でのレスターの立場は、3人の中で一番弱い。娘にも妻にも軽蔑されている。普通のサラリーマンだがリストラ対象になっている。不動産の営業をバリバリやっている妻の方が恐らく、稼ぎは多いのだろう。当然、主導権はレスターではなく妻の方にある。妻が車の運転をし、レスターは助手席に座るという構図が、二人の力関係を象徴している。典型的なダメなおっさんなのだ。
そして、レスターはアンジェラに一目惚れしてしまう。娘の友達を好きになるという、気色悪さまでもが加わる。そして、そこからは常にレスターの心にはアンジェラが付き纏ってしまう。アンジェラに対して性的な妄想をしたり、娘の手帳を調べてアンジェラに電話を掛けたりと、その行動は娘と同じく「Oh,gross!(きしょい!)」と言いたくなるが、本人はいたって真面目であり純愛のつもりであるのが、これまた滑稽と同時に痛いのだ。
そしてアンジェラは、この父親に好かれることに対して嫌悪感を抱かない。自らをビッチと自認している少女なのだ。彼女が普段、友達に対して吹聴している話の内容は、「色んな男とfuckした」「男は皆、自分の虜になる」というような、典型的なビッチ発言だ。
この典型的なダメ人間たちが出会い、すれ違い、交差することによって崩壊のラストに向かうことになる。これだけ典型的であることを強調したのは、本来は予定調和的でつまらない結果になることが多いベタな表現が、『アメリカン・ビューティー』に於いては、逆にラストの崩壊を美しく彩るための必要条件になっていると感じたからだ。
映画の後半からは、登場人物の価値観が徐々に逆転しはじめる。あれだけゲイを嫌悪していた隣人が、あるきっかけで男性にリビドーを感じてしまったり、最初はサイコヤローの盗撮を嫌悪していた娘が、親友のアンジェラではなく自分に注目してくれることに喜びと悦びを見出し、サイコヤローを好きになったり、といった逆転が面白い。そしてこれらの逆転現象を面白くしているのは、最初に登場人物のダメさをベタに描いたことに起因している。ティピカルだからこそ、効果があるのだ。
そして、ラストの逆転がまた哀しい。「自分はビッチだ」と公言し、男に抱かれることに自分の価値を見出していたアンジェラが、レスターに抱かれようとする直前、実は処女だったと告白する瞬間。なぜ、そんな告白をしたのかの理由も含めて、とても哀しいのだ。また、アンジェラの告白を受けた時のレスターの対応も、また哀しい。性的な目で見ていたアンジェラに対して、性欲とは真逆の父性が芽生える瞬間が、哀しく美しいのだ。
実に滑稽で痛いが故の、上質なコメディ映画だったのだ。
長くなり過ぎた。以上。