日々の読書日記

読書の忘備録です

47回目「死の家の記録」(ドストエフスキー著 工藤精一郎訳:新潮文庫)

囚人の生活とか刑務所内の環境とかは、一般人にはなかなか触れる機会がない。時折、囚人に対する虐待や暴行、さらには、それによる囚人の死亡などのニュースを耳にすることがある。その度に、刑務所という場所に対して負のイメージを持ってしまう。ニュースを聞いた瞬間は、刑務所内では虐め・暴力・虐待などが日常的に行われている劣悪な環境なのだろうなぁ、堅気の人間には耐えられないだろうなぁ、酷い所だなぁと思ってしまう。

しかし、よく考えてみると、刑務所内で囚人に対する非人道的な事件が起こる確率は、ごくごく珍しいことだと分かる。というのは、珍しいからこそ事件としてニュースで扱われるのであり、非人道的行為が自明のものとして日常的に発生しているのであれば、ニュースにはならない。原則ではなく例外だから事件になるわけだ。そして、そのような例外的なものに対して、「ああ、この(一応)民主主義の発達した現代の日本で、このような陰惨な事件が起こったのか・・・痛ましいな」と暗い気持ちになるわけである。

つまり、現代の日本の刑務所における囚人の生活というのは、例外的に虐待などの悲劇的な事件が起こる可能性はあるが、最低限の人権は保障されており、我々のような外野が「非人道的だ!」と憤るほど悲惨な場所ではないと想像できる。もちろん、罪を償う為の場所であるから、娑婆に比べると時間的自由・空間的自由は著しく制限されていることも周知の通りだ。間違っても、自ら進んで入りたいと思うような場所ではない。

というのが、現代の日本の刑務所に対して自分が持っているイメージだ。では、『死の家の記録』の舞台である19世紀のロシアの刑務所はどうだろうか。19世紀である。「思想」が理由で逮捕されるような時代である。読む前は、今の日本では「あってはならない事件」としてニュースで報じられるであろう、上記のような非人道的なことが日常的に起こっていたのだろうと想像した。裏に書かれたあらすじも、この監獄がいかに地獄のような凄惨な場所であったか、という部分を強調している。当然、読者である自分もそこに期待して読む。

かなり長い小説で、読了するのに約一か月掛かったのだが、苦労して読んだ割に、肩透かしを食らった感じがした。部分的には面白い個所もあり、読み入ってしまうのだが、全部を読み終わった後に残るのは「イマイチ」という感想と、徒労感であった。

しかし、せっかく一か月も掛かって読んだのだから、どの点が自分には合わなかったのかを考えてみる。

死の家の記録』は、ドストエフスキーが、実際に思想犯としてシベリアに流刑にされ、監獄にぶち込まれた時の体験を元に書かれた小説だ。小説ではあるが「創作」というよりは、ドストエフスキーの観察力・洞察力・記憶力を駆使して書かれた事実の列挙というニュアンスの方が強い。その名の通りまさに「記録」なのだが、物語的な味付けも多分にされている。自分にはこの味付けが少々、クドかった。蛇足が多すぎるように思ったのだ。例えば、第2部の後半、唐突にある囚人が、なぜこの場所に収容されたのかを、隣で寝ている別の囚人に語りだすのだが、何かストーリーに関わる重要な事なのかと思いきや、ただの痴話喧嘩の話であったり、そして、その痴話喧嘩の内容が妙に入り組んでいて、小説の中で別の小説を読まされているような感じなのだ。恐らく、下らない理由で、自分の許嫁を実際に殺害してしまう男の短絡的で残虐な性格を描く事によって、監獄内の人物がどれほど異常であるかを表現しているのだろうが、翻訳の問題なのか、異常性よりも、単に「下らない話」という印象だけが残った。

また、全体を通して、登場人物のキャラクターの説明を延々と読まされているような感じがした。しかも、その性格に一貫性がないように思った。例えば、作中で、粗暴で狂暴な性格の持ち主などと評された人物が、ドストエフスキー本人の投影である主人公に、とても優しく接したりする。良い奴なのか悪い奴なのか分からない。また、無学で頭が悪い男と称された人物が、とても手先が器用だったり、監獄内の世渡りに長けていたりする。頭が良い奴なのか、悪い奴なのか分からない。混乱するのである。このように、無意味に長い部分、蛇足に過ぎる箇所がありすぎた故、読むのが苦痛であった。これが、『死の家の記録』を「イマイチ」と感じた第一の理由である。

また、自分が期待したポイントが「監獄の凄惨さ」であったことも大きい。『死の家の記録』は、あらすじにも強調されているように、どれだけこの監獄が悲惨な場所であったのか、そこを主題にしているように思うが、小説を読む限りは、それほど凄惨な感じもしないのである。囚人たちが恐れている鞭の刑(チケイと言うのだが、漢字変換が出てこない)も、別にそんなに痛そうとも思わない。囚人たちの人間関係も、例えば貴族出の囚人たちと、ポーランド人の囚人たちと、殺人などの罪を犯した純粋な囚人たちの間には、分厚い壁があり、純粋な囚人は、貴族出の囚人たちを毛嫌いしており、その人間関係がもたらす、不自由や凄惨さも語られてはいるが、別のシーンでは、彼らは結構仲良くやっているのだ。その様子は微笑ましくさえあり、随分と牧歌的だ。一緒に、芝居を作ったり、それを見たり、クリスマスが来るのを浮き浮きしながら待っていたり、「19世紀のロシアの監獄」から連想する凄惨なイメージとは、随分と程遠いのである。

同じ時期にBSで観たスピルバーグの『シンドラーのリスト』の方が、余程、凄惨で悲惨だった。

というのが、『死の家の記録』を読んで、イマイチと感じた理由である。

ただ、部分的には本当に面白く、ドストエフスキーの洞察力に何度も舌を巻いたのも事実である。

以上。

 

死の家の記録(新潮文庫)

死の家の記録(新潮文庫)