猫町倶楽部という団体が主催している読書会に参加してきた。
課題本を読了した参加者たちが、グループに分かれて課題本の感想を言い合う。1グループがだいたい7,8人で、テーブルを囲って読んだ本について語り合う。ワンドリンクが付いていて、アルコールも飲める。ファシリテーターという司会をする人をグループ内で一人決め、その人が進行する。語り合いが終わったあとは、料理が饗され、半ば合コンのような飲み会が始まる。「猫町倶楽部」とエゴサーチすると「婚活」というワードが出てくるのも、こういった所以からだろう。
以上が、猫町倶楽部の読書会の大まかな流れである。
課題本について議論するわけではない。「他人の意見を否定しない」というのが、猫町倶楽部に於ける唯一のルールであるから、議論にはならない。自分はどう読んだか、他人はどう読んだか、それをお互いに発表しあう。当然「お前の読み方は間違っている」などとは言ってはいけない。自分とは真逆の意見も受け入れ、耳を傾け、理解する。読み方や感想に正解はないので、堂々と自分の意見を述べればよい。口下手な人でも安心して参加できる。多少、的外れな事を言ってしまっても、ファシリテーターや他の参加者たちが上手くフォローしてくれる。
こういうルールがあるからか、参加者たちは皆、優しくて寛容だ。だから俺のような人見知りで基本的に議論が苦手な人間には、とてもありがたい。ただ「他人の意見を否定しないのは、おかしい」という意見は否定されないのだろうか、と思った。思っただけで、実際には言ってないので、皆は俺がそのように思った事を知らないが、なぜ、俺が「他人の意見を否定しないというのは、おかしいという意見は否定されないのですか」という意見を思っただけで言わなかったのかといえば、そんな事を言えば、優しさと寛容に溢れた和やかな場が、一気に白けるだろうし、「他人の意見を否定しないというのは、おかしいという意見は否定されないのか」という意見を、俺自身が本当にそう思っているかと問われれば、実際には、そこまで「他人の意見を否定しないというのは、おかしいという意見は否定されないのか」とは思っていないし、などといった事情を鑑みて「他人の意見を否定しないのはおかしい、という意見は否定されないのですか」とは言わなかった。
こんな回りくどい事を書いたのは、今回の猫町倶楽部の課題本が町田康の「告白」だったからだ。上記のような事を考えてしまう俺のような人間は、きっと「告白」を絶賛するだろうと思う。逆に、他者とのコミュニケーションに悩んだことのない人は「告白」を読んでもピンとこないかもしれない。
実は俺が「告白」を読んだのは10年以上も前の事で、今回、猫町倶楽部に参加するにあたって、もう一度、読み直したのだが、やはり、すごい小説だと思う。その頃はまだ学生で年齢も若く、多感な時期であった。こんな表現は使いたくないが、敢えて言うと「中二病」の気があったかもしれない。だから、太宰の「人間失格」や三島の「金閣寺」などと、モチーフとしては同類であると思われる「告白」に感銘したのだが、曲がりなりにも社会人になり、人生経験を積んだ(別にたいした経験はしていませんが)今読んだら、当時ほどには感動しないだろうと思ったが、当時以上に感動した。案外、社会に出てからの方が世の中の理不尽に突き当たることが多いからだろうか。
「告白」のテーマを一言でいえば(「この一言でいえば」という発想じたいが作品を冒涜しているようにも感じるが、ご勘弁。)、「思弁の言語化の限界」とでもいえばよいだろうか。人は、心の中、脳の中で色んな事を思い、考えている。睡眠中以外の時間は、ずっと途切れることなく常に何かを思い、何かを考えている。そして特別な理由があったときに、自分の内にある思弁を言葉にして他者に伝える。しかし、思った事、考えた事を全て漏らさずに言語化するのは不可能だ。それは当たり前の話で、普通、人は「伝えるべき内容(言語)」と「伝えなくてもよい内容(思弁)」を取捨選択する能力を、社会生活を営みながら育み、学んでいく。だから人と人が言語を介して通じ合うときは、互いの言語の最大公約数を読み取る必要があるわけだ。説明すると小難しく聞こえるが、考えれば当たり前のことだ。
言語が不完全であるという事は、その言語の中に「ニュアンス」とか「概念」とか「暗黙の了解」といった「言語で説明ができない事を説明する言語」が内包されていることでも自明であろう。ここまでの文章を確認したが「」()といった記号が多い。また「当たり前」といった言葉を重複して使っている。それは、俺の文章力の問題でもあるのだが、それだけでなく、言語の不完全性にも要因があるのではないだろうか。何を言っているのか分からなくなってきた。
「告白」の主人公である熊太郎は、この「言語の不完全性」に気付くことができず、言語の力を健気にも信じてしまったがために、ドツボに嵌り、10人もの人間を殺害し、唯一の理解者であった弥五郎も殺し、最後に虚無の言葉を呟いて、自らも命を絶った。
虚無感というのは、つまるところ、心の中に何もない状態を指すのだろうが、「告白」を読んだ後に感じる虚無感は、なにかずっしりと重い鉛のような存在が心の中に横たわって数日間消えない、強烈な虚無感だ。こんな読書体験はなかなかできない。
P.S 今回の猫町倶楽部のイベントでは町田康さん本人も来られていて、トークショーもあった。トークの内容は、参加した人だけの特権だと思うので、ここでは書かないが、とても楽しく、深く、貴重なお話が聞けました。