昔。定食屋に一人で昼飯を食べに行った。ランチ時で店内はかなり混んでおり、明らかにホールスタッフの数が足りていなかった。
そこへ、50代くらいの見るからに柄の悪いヤクザ風のおっさんが、店に入り食券を買ってテーブル席に座ったが、店員は忙しすぎておっさんの存在に気付かなかった。
おっさんはブチ切れ「なにしとんねん、はよ注文とりにこんかい、ごるぁ!」と店員に怒鳴り散らした。恐らく学生バイトだと思われる店員が、すぐにおっさんの元に駆け寄り「大変、申し訳ございません。すぐにお伺い致します」と丁重に詫びた。店内にいる誰もがおっさんの傍若無人さに不快を感じたと思う。
それは別に良いのだが、このおっさんの頼んだ料理が「お母さんの玉子焼き定食」であった。店員が料理をおっさんのテーブルに置く時に料理名を口にしたから発覚した。近くのカウンターの席にいた自分は笑いそうになった。こんな輩みたいなおっさんのくせに、母親の玉子焼きの味が恋しくなったのかと想像すると些か滑稽に思えたのだ。キャラに合わない物、食うなよおっさん……。
『ゴッドファーザー』は、今更自分が説明するまでもない、マフィア映画の金字塔だ。3時間以上の長尺で、内容も人間関係もなかなか複雑だが、見せ方が上手くストレスなく見続けられる。緊張感のある演出も見事だ。ロバート・デ・ニーロ演じる若き日のヴィト・コルレオーネが地元のドンの家に侵入する際に電球をゆるめるシーンなど、目を見張る。『ゴッドファーザー』がマフィア映画史に残る名作であることが肯ける。鑑賞後の満足度は高い。
ストーリーについて、重箱の隅を突くような事を申し上げると、マイケルたちの母親が死ぬタイミングが少しご都合主義ではないかと思った。マイケルは自分を裏切った兄・フレドを粛清しようとするが、母親が生きているうちは実行できない。母が悲しむからだ。それが、幾日も経ってないうちにあっさり母親は死んでしまう。以前から病気で弱っていたというわけでもない。ちょっと都合が良すぎるかな、と思う。
気になった所はそれくらいで、3時間20分、全く退屈させない良い映画でした。
しかし。
こんな冷酷で恐ろしいマフィアの連中が、自分の親を「パパ」「ママ」と呼ぶ事に拭い難い違和感を覚える。たとえその呼称がイタリアンマフィアの風習だと理解していても、シリアスなシーンでいきなりアル・パチーノが「ママに会うときは俺が席を外す」なんて言うとギャグに思えてしまうのだ。日本のヤクザを演じる役者が、例えば高倉健や菅原文太などが、劇中で親のことを「お父さん」「お母さん」と呼ぶとギャグになりませんかね?「親父」「お袋」と呼ぶのは許容範囲ですが。『ゴッドファーザー』を見てこんな事を感じるのは自分だけかもしれないが、冒頭で書いたおっさんのエピソードと同様、真面目な事言ってるのに笑ってしまいそうになり、映画への没頭を阻害されてしまうのだ。
また、『ゴッドファーザー』に限らず、世間一般のマフィアや暴力団に対しても自分は疑問に思うことがある。
彼らはいわば、アウトローな存在であり、一般人が持っている倫理観・道徳観が通用しない世界に生きているわけである。なのに「家族愛」だけは異様に強い場合がある。「親を大切にする」とか「兄弟の絆」という道徳なんか無視してこそ、本当のアウトローじゃないのか?普段、悪いことしてるわけだし、「親死んでも全然悲しくないし、むしろ遺産早く欲しいから親、殺そうかな~」くらい言って欲しい。本当に彼らが「悪」であるのならば。