自分の場合、小説を読んで感動するのは主に「物語」と「文体」に依ってである。どちらか一方でも、自分の琴線に触れれば、素直に感動する。単純な人間なのだ。まあ別に「感動」といっても、泣いたり心が震えたり人生観が変わったり、というような大袈裟な意味ではなく、もう少しざっくりと、「感心」といった方がいいかもしれない。
「物語」で感動するというのは、つまるところ、ストーリーがよくできていて面白いという意味で、ミステリー小説を読んで、驚愕の真犯人が判明した瞬間などに感じる。多分、最もオーソドックスな感動の仕方ではないだろうか。この種の感動との最初の出会いは、恐らく、小学生の頃によんだ野口英雄の伝記だったと思う。野口英雄の、貧しく病弱であった幼少期から、黄熱病の研究でアフリカに行きガーナの地で生涯を終えるまでの物語で、もう殆ど覚えていないけど、小学生の自分を感動させ、「自分も野口英雄みたいに勉強を頑張って立派な人になろう」と思わせるくらいの力が、その物語にあったように記憶している。実際に勉強を頑張ったのは、最初の三日間だけだったことも覚えている。
一方、「文体」で感動するというのは、つまるところ、「語り口」が面白いという意味で、何でもない話でも、作家独自の表現方法で面白おかしく読ませてくれれば、感動するのである。「物語」による感動の仕方よりは、若干高度な感動で、ある程度の読書経験がなければ、「文体」だけで感動するのは難しいだろう。「文体」による感動は、作家との相性も大きく関係してくる。「文体」は、小説を構成する一つの要素に過ぎないが、実は、雑多な装飾を取り払った作家の奥底にある最もピュアな部分であり、「文体」に感動したという事は、イコール、作家の本音の部分に共鳴できたということだ。ただし、基本的に作家は天邪鬼な人が多い。虚構を書く職業なので当然といえば当然だ。意図的に文体を崩し、注意深く本音がカムフラージュされた作品から、作家の本音を読み解くのは至難の業である。しかし、一見、煌びやかに装飾された文体や、無味乾燥して荒んだ文体から僅かに滲み出る作家の本音を探り当て、作家と共鳴できた時の感動は、「物語」によってもたらされた感動よりも、より味わい深いものではないだろうか。
さて、前置きが長くなったが、中上健次の『枯木灘』である。自分は、『枯木灘』を読んで感動した。しかし、自分が『枯木灘』に感動したのは、「物語」でも「文体」でもなかった。
『枯木灘』は「物語」と「文体」の両方とも優れた稀有な小説であることは間違いない。「物語」は、秋幸という青年を中心にした、非常に複雑な人間関係が描かれる。まず、秋幸には種違いの兄弟が4人いる。そして腹違いの兄弟も4人いる。その腹違いの兄弟の内、1人は実父の愛人が産んだ子であり、3人は実父の二番目の妻が産んだ子である。さらに、実母の再婚相手に連れ子がいるため、義理の兄弟が存在する。秋幸の周辺だけで、かくも複雑な関係があり、最初は登場人物たちの背景を掴むのに苦労するが、物語がいたずらに錯綜したり混乱したりすることはなく、小説内で発生する大きな事件は、クライマックスである異母弟の殺害の他に、幾つかのセンセーショナルがあるくらいで、分量に比して少なく簡潔だ。つまり、「物語」はシンプルで面白かった。
「文体」には、独得の回りくどさと粘っこさがある。舞台が和歌山県の紀州のため、登場人物が話す言葉は大阪弁をより土着的で土俗的にした、きついけどどこか愛嬌のある方言であり、作品の狂気的な雰囲気と妙に調和しており、面白かった。
しかし、『枯木灘』を読んで得た感動は、「物語」と「文体」によるものではない。じゃあ、何によるのかという話だが、それが自分でもよく分からない。小説に一貫して通底する中上健次の魂のようなものかもしれない。という抽象的な結論でお茶を濁そうと思う。