スウェーデン北部に住む少数民族サーミ人の少女を主人公にした物語。人種差別をテーマにした映画で、主人公が、スウェーデン人から理不尽で屈辱的な仕打ちを受けるシーンは、観ていて辛くなる。
映画としては、よくわからないシーンが幾つかあって(というのは、自分の無知と理解力の無さに起因するのだが)、ずっと心に残るような傑作だとは思えなかった。主人公の少女が、スウェーデンの大学に通う経緯が、よく分からなかった。ダンスホールで出会ったスウェーデン人の青年と一夜を過ごし、翌朝別れてから、次のシーンでは、もう大学のキャンパスに入っているのだが、いつの間に入学したのだろう。単に大学に忍び込んだだけなのかと思ったが、ちゃっかり体操の授業なども受けている。その後、授業料を払わないといけないという書面を受け取っていたので、正式にはまだ入学していないらしい。ここら辺の説明が、省略されていてよく分からなかった。
また、冒頭のシーンに出てきた老婆が、未来の主人公の姿であることがラストで分かるのだが、それまで自分は、この老婆が主人公の祖母だと勘違いしていた。要は、老婆が登場する最初と最後のシーンが現代で、本編は過去の話だったわけだ。それに気付かず、ずっと現代の話なのかと勘違いしていた自分は、現代のスウェーデンで、あのような許しがたい人権侵害と差別がまかり通っているのかと憤っていたが、どうやら昔の話だったことが判明したので、少し安心したのである。
まあ、差別は過去も現代も未来もあってはいけないものだが。
というわけで、映画の評価としてはイマイチだったが、それは自分自身の鑑賞力の問題である。
ただ、差別ということに関しては色々と考えさせられた。
スウェーデンを含む北欧の国々は、税金は高いが福祉の行き届いた国で、国民の生活水準と幸福指数はともに高い。そんな漠然としたイメージを持っていたが、一方で、映画で描かれていたような人種差別、少数民族に対する偏見や迫害も存在していたわけだ。そして、今現在も存在しているかもしれない。自分が持つイメージというものが、いかに漠然としていて、根拠の薄弱なものであるかを気付かされた。物事というのは、多面的に見ないといけないということだ。
差別がなぜ起こるのかということも、愚かなりに少し考えてみた。
今、アメリカは大統領選の真っただ中で、トランプ(支持者)とバイデン(支持者)が、共に醜く不毛な応酬をしている映像を、何度となくテレビで観ている。暴力沙汰に発展したケースもあるみたいだ。「どちらかが一歩引けば良いのに」などと自分は思うが、渦中にいる人たちは当然、「自分たちが正しい」と思っている。あの不毛な応酬をしている人達には、おそらく悪意はない。純粋に自分たちの意見が正しいと、本心から思っているのである。だから、余計にタチが悪い。アメリカ大統領選を例に出したが、身近な例でも同じような構図は沢山ある。SNSでの誹謗中傷合戦などもメカニズムは同じなのではないだろうか。差別というのは、「自分は正しい」と思う精神が、捻じれて他者の攻撃に転化したもののように思う。偉そうなことを書いたが、自分自身も渦中に入れば、見境がなくなり、自分とは意見を異にする他人を攻撃してしまうかもしれない。そうならないためには、どうすればいいか。答えは、徹底的に自虐的になることである。「自分は愚かだ」「自分は間違いを犯す」と常に頭の片隅に入れておけばよい。しかし、それはとても難しいことだ。
だからこそ、他者に向けている言葉を、発する前に一度飲み込んで、自分自身に向けてやると、割と差別が少なくなり、世界が平和に傾くのではないだろうか。実際は、そんなに単純なものではないし、歴史的・文化的な要因が複雑に絡まり合って、差別が根付き、蔓延っていることは重々承知している。
しかし敢えて、このような青臭い理想主義を叫んでみたくなった。青臭い思想は、案外、少なからずの人を啓蒙できるのではないだろうか。
後半は、映画評とは全く関係がなくなったが、悪しからず。
以上。